サイン色紙

・竹原慎二

・平成15年1月18日

・ナディアパーク

・無料(7・8人ぐらい)


 竹原慎二さんは、日本での最重量クラスであり、また世界で最も層の厚く、ジャック・デンプシー、シュガー・レイ・レナード、マービン・ハグラー、トーマス・バーンズなどの伝説のボクサーが君臨していたミドル級の、世界チャンピオンになった、ただ一人の日本人ボクサーです。
 少年時代は「広島の粗大ごみ」と言われるほどの暴れん坊でしたが、16歳のときに起こした事件を契機に心機一転、プロボクサーになるため上京。17歳でプロテストに合格し、以後デビュー戦からずっと勝ち続け、平成元年(1989年)全日本ミドル級新人王、平成3年(1991年)日本チャンピオン(4度防衛)、平成5年(1993年)東洋大平洋チャンピオン(6度防衛)と、タイトルを次々獲得。
 そして平成7年(1995年)12月19日、日本人として初めてWBA世界ミドル級タイトルマッチに挑戦。相手は、アマチュア128戦126勝2敗、プロ104戦98勝(69KO)4敗2分け(当時)で、そのプロ104戦の間一度もダウンしたことが無いタフネスで、「ロコモトーラ(機関車)」と呼ばれるチャンピオン、ホルへ・カストロ選手(アルゼンチン)。プロ・アマ合わせて200勝以上している怪物、というより怪獣のような選手で、しかも今まで日本人がチャンピオンになったどころか、挑戦すらさせてもらえなかった階級ですから、マスコミも世論もボクシング関係者の中でも「竹原絶対勝ち目なし」と言われた中、竹原選手は互角以上に打ち合い、しかも3ランドには、必殺の左ボディーで一度もダウンをしたことが無いチャンピオンからダウンを奪う大健闘。12ラウンドフルに闘い、最後は3−0の文句なしの判定で、前人未到のWBA世界ミドル級チャンピオンになりました。
 しかし、翌平成8年(1996年)6月24日、初防衛戦で、当時世界ランキング1位で、以後長きに渡ってミドル級王座に君臨することになる、文字通り最強挑戦者ウイリアム・ジョッピー選手(アメリカ)に敗れ、王座転落。網膜はく離が判明し、その後引退しました。生涯戦績25戦24勝(18KO)1敗(この1敗が、あのウィリアム・ジョッピー戦で、実質引退試合)。
 引退後の現在は、イタリアンレストラン「カンピオーネ」のオーナーとして事業を展開する傍ら、ジャニーズのTOKIOが司会するバラエティ番組「ガチンコ」の1コーナーで、不良たちにボクシングをスパルタ指導するコーチとして「ガチンコファイトクラブ」に出演し、一大ブームを起こすなど、タレントとしても幅広く活躍しています。
 このお宝は、平成15年1月18日にナディアパークで行われた愛知県知事選挙の啓蒙イベントでGETしました。選挙が行われるたびに私の地元では、年々下がる投票率に歯止めをかけるため、タレントを呼んでイベントを打ちますが、今回はコミックソングで有名なシンガーソングライターの嘉門達夫さんと、竹原慎二さんが呼ばれました。私はこの情報を当日知りました。なんせ、日本人では絶対なれないと言われたボクシングの世界ミドル級チャンピオンになった人であり、またTV番組「ガチンコ!」の「ガチンコファイトクラブ」での活躍ぶりに、どうしてもサインがほしくて、仕事がありにもかかわらず、無理やり抜け出し、ナディアパークに行きました。
 イベントは2部構成で、最初午後1時からは、嘉門達夫さんのライブ&トークショーが行われ、午後3時からお目当ての竹原慎二さんのトークショーが行われました。
 トークの中身ですが、「広島の粗大ごみ」と呼ばれた不良時代からプロボクサーになり、世界チャンピオンになるまでの話が中心で、あんまり選挙とは関係なかったです。
 イベントが中ほどに差し掛かったころ、竹原さんがみずから簡単なボクシングの指導とミット打ちを行うこととになりました。「参加したい人、手を上げてー」と司会者が言った瞬間、いつもの好奇心で、私は思わず手を上げてしまいました。
 壇上に上がったのは、私を含めて16歳の少年と、若い女性の3人。私はこの中で一番年配でして、壇上に上がったら急に恥ずかしくなり、年齢を聞かれた時、思わず「30」と、5歳もサバを読んでしまいました。そしたら司会者が「それにしても老けてますねー」と言われてしまいました。サバを読んだ私が悪いですが、気持ちでは若いつもりでいたので、これにはかなりショックでした。
 しかも、ショックなのはこれだけでなく、簡単なレクチャーの後のミット打ちでは、ミットを打った後の竹原氏の攻撃を、まったくよけることができませんでした。練習ですから本当にゆっくりで、しかも来る事がわかっているのに、体が反応できず、バランスを崩して思わず尻餅をついてしまいました。私の前にやった16歳の少年はうまくよけていたので、自分もうまくやれると思っていましたが。見るとやるとでは大違い。
 竹原さんも「一見簡単そうに見えるかもしれませんが、30を過ぎると、どうしても体が付いてこなくなるようになる」と言って、フォローしてくれましたが、今回のことは、本当に自分が年をとったことを実感させずに入られませんでした。壇上にあがる前は「世界チャンピオンに、ミット打ちをしてもらえる」と喜んでいたのですが、ミット打ちの無様さが、まるで「ガチンコファイトクラブ」に出ている情けないファイトクラブ生みたいで、かなり鬱になりました。オマケに、そこまでやって参加賞が、竹原さんのサインではなく、FM愛知のロゴが入ったゴルフボール2個なのも、ガッカリでした。
 散々なボクシング講座の後、質問コーナーに移りました。そこで私は「この前行われた、(世界ミドル級タイトルマッチ)ウイリアム・ジョッピー対保住直孝戦の、率直な感想を教えてください」と質問しました。
 先に書いたとおり、ウイリアム・ジョッピー選手は、竹原さんからミドル級のチャンイオンベルトを奪い、2度タイトルを失ったけどすぐに奪取し、その間ずっとミドル級に君臨していた最強チャンピオン。竹原戦から6年たっているのに、まだ世界ミドル級王者として来日してきました。対する保住選手はグリーンボーイの時、当時東洋太平洋ミドル級王座だった竹原さんに対して、「今やれば勝てる」とか「竹原は逃げてるんですよ、俺から」「俺とやったらブッ殺されるでしょう」と、散々口汚らしく挑発していた相手。竹原さんと、因縁浅からぬ2人が、平成14年(2002年)10月10日、世界ミドル級のベルトを賭けて、解説として呼ばれた竹原さんの目の前で激突していました。
 結果は、保住選手の10ラウンドT.K.O負けですが、チャンピオンのスピード・テクニックが、素人目に見ても明らかなぐらいの上回っており、内容的には結果以上の惨敗でした。
 一応メディアの前では、竹原さんは保住選手のガンバリを称えた発言をしていましたが、実際のところ本音はどうか聞きたかったのです。
 すると竹原さんの答えは、「・・・自分だったら、勝ってた試合だった」と、大胆発言!
 もちろん、現役を引退した竹原さんがいまやって勝てるわけではないですが、6年前闘ったときの比べてスピートや力が明らかに衰えていたとか。だから、竹原さんの初防衛戦のときの相手が、若い時ではなく、この32歳になったジョッピー選手だったら、勝てたということでしょう。
 ちなみに、私もジョッピー・保住戦をテレビで見ていましたが、日本の期待の星で若い保住選手が、すでに32歳にもなるチャンピオンのスピードにまったくついていけませんでした。その時、「なんて早いんだろう。世界の壁は厚いなー」と思ったのですが、竹原さんが闘ったときは、これよりもっと早かったなんて。あれで、遅くなったと言うんですから、保住選手は、まだ世界と戦える器じゃなかったんだろうね。
 質問コーナーが終わると、竹原さんの直筆サインが入った自伝「竹原スタイル」がもらえるジャンケン大会が行われました。もちろんこれのために、このイベントに参加したのですが、敢無く敗退。相変わらず勝負事に弱かったです。
 最後は選挙のPRイベントらしく、会場に集まった人全員で「投票に行くぞー」のシュプレキ・コールをあげて終了。
 でも私は、仕事を抜け出してまでしてここに来たのですから、サインGETせずに帰るわけにも行かないので、イベント終了後、すばやく追っかけ、何とか竹原さんを捕まえてサインをお願いしました。竹原さんは快く、手馴れた手つきでサインを書いてくださいました。
 ちなみに私以外にも、竹原さんを追っかけて来た人が結構多くいて、しかも色紙まで用意していた人が6〜7人いました。今までの私の経験からすると こういうトークイベントで、色紙を用意してサインをお願いするのは私だけだったのですが、この時自分と同じことを考えていた人がこんなにも多くいたのに、少し驚きました。やはり竹原さんの人気の高さでしょうか。混乱を避けるためマネージャーらしき人が「色紙がある人のみサインします」と言ってくれたので、その時色紙を持ってきた人は全員してもらいました。

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